社会人MBA-技術者編

July 27, 2009

“経営者の言葉”-リンク集-

本ブログのカテゴリ“経営者の言葉”に関して、一覧を記載します。
以下からもご覧ください。

*  *  *
『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助
商人は賢才でなければならぬ―渋沢栄一
「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」―五代友厚
腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
金融界のイノベーター―野村徳七(二代目)
宅急便の誕生―小倉昌男
自社製品を自分で駆逐しなければ、他社にやられるだけである。―盛田昭夫
やってみなはれ。-鳥井信治郎

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July 26, 2009

自社製品を自分で駆逐しなければ、他社にやられるだけである。―盛田昭夫

我が家のリビングは未だにブラウン管テレビである。この頃、少し画面が明るくなったり、色合いが・・・・と不具合が出てきているが、まだまだ見れる。

よくみると、”ソニーのトリニトロン”である。近年、”ソニータイム”などガラスの製品のイメージが強いが(実際、私も購入したノートPCではそう思った)、ブラウン管テレビはそんなイメージがない。

さて、そのソニーの創業者としては、盛田昭夫、井深大はよく語られる。本日の記事は盛田昭夫である。

タイトルの「自社製品を・・・」は、CDプレーヤーなど新製品を出す際には、当然ながら、社内の旧製品の部門を整理しなければならず、やはり、当該社員は不満であったが、盛田はそう語り、開発姿勢を示していた内容である。

一言でいえば、イノベーションである。
*巷間、”革新的”などで使用されるイノベーションですが、本来の意味は「何かを新しくする」です。

彼も神様ではない。負けることもある。ただ、電卓やベータで負けても、その技術をパソコンや8ミリビデオカメラに組み込み挽回した*。

そうなのである。研究開発にはそういう面が大いにある。目的の達成には多くの仮説を立て実験を行なう。そのような行為の蓄積が企業の財産であることは、わかっていても実行できる経営者は少ない。

いや経営者だけを責めることは出来ない。四半期ごとに利益を求める株主も問題なのかもしれない。皮肉にも、生前、盛田は、その四半期ごと、所謂、「アメリカスタイルはアメリカの経営の問題点*」として指摘していた。今、その真似事をした日本がそうなってしまった。

・・・アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない**(盛田昭夫)



<関連記事>
『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助
商人は賢才でなければならぬ―渋沢栄一
「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」―五代友厚
腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
金融界のイノベーター―野村徳七(二代目)
宅急便の誕生―小倉昌男


<参考>
*大前研一「今こそ盛田昭夫を再評価せよ」『文藝春秋』2009.6月号,pp142-150.
**ビジネス哲学研究会『心に響く名経営者の言葉』PHP研究所,2009.
Wikipedia:盛田昭夫井深大
盛田昭夫ライブラリー←ここにも多くの盛田語録が掲載されていますのでご参考ください。
ソニーの歴史(公式ホームページ)

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July 22, 2009

宅急便の誕生―小倉昌男

経営には”合理性”が求められ、「業績」こそがすべてである面がある。たとえ、経営者の人が良くとも、誠実であろうとも、時にエンジェルであろうとも、業績不振はその経営権を奪う”結果”となる(不運な事故や外部環境の変化などの場合も)。

そういった中で、保たなければならない倫理に関する経営者の葛藤は経営者にしかわからない。宅急便の生みの親である小倉昌男は、まさに、若き日に感銘した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』での中の葛藤が、倫理を基盤とする経営を志向するになっていった*。

だが、小倉を宅急便の父にしたのは、そのような倫理観でも、使命感でもなかった。70年代に競合企業であった西濃運輸、福山運輸に比べて、格段に低い利益率であったヤマト運輸の厳しい経営状況であった(売上高に対して;競合の8-12%に対し、3%にも満たない状況であった)。

このことが、後に「清水の舞台から飛び降りる」と述懐した、”小口宅配”を決断させた後押しとなっている。それ以前の業界の分析、牛丼の吉野家、マンハッタンでのUPS(United Parcel Service)を見ることで、その可能性を確信はしていたが、このことが大きな賭けであることには間違いはなかった**。

今で言えば、ロングテール…だが、そうであるならば、小口宅配、いわゆる宅急便は家庭の1個の荷物を集荷、配達するのであるから、それを集約するシステムを構築するところから始めなければならない。

と、その前にお決まりの「時代遅れの規制行政がネットワークの拡大を阻んだ**」ことも手伝い、いくら利益率が高いビジネスであろうと、一見、デメリットは多かったが、後に背水の陣で望んだ全国展開は成功を収めるのである(従来の三越などの大口顧客と決別していたので背水の陣であった)。

この辺がヤマト運輸の激動期であり、宅急便といえば・・・この辺にスポットがあたることが多い。

後には、多くの障がい者の自立と社会参加を支援する、スワンベーカリーを、なんと月給10万円以上を目指して進められた。行き過ぎた合理的資本主義に小倉が警鐘を鳴らす行為であったことは間違いない。

だが、それには、乾坤一擲の新ビジネスで成功したからこそ、行なえる事業であることも忘れてはならない一面である。


・・・「デメリットのあるところにこそ、ビジネスチャンスがある」(小倉昌男)***


<関連記事>
『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助
商人は賢才でなければならぬ―渋沢栄一
「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」―五代友厚
腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
金融界のイノベーター―野村徳七(二代目)


<参考資料>
*『経営はロマンだ! 私の履歴書・小倉昌男 (日経ビジネス人文庫)』より。
**『経営学』,日経BP社,1999.より。
***最後の言葉は下の参考資料『心に響く 名経営者の言葉』より。

 


<小倉昌男に関する参考資料>
*ビジネスケースとしては、慶応、一橋から発行されています。BookParkから購入可能です。



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July 19, 2009

モルツ、BOSS、伊右衛門のゆくえは?

「(仕事が終わって)お疲れ様~」
「今日どこ行く?」
「あの店がいいんじゃない?」
「ダメダメ!あそこはサントリーがないから(モルツが飲めないから)」

仕事の後の一杯は、やっぱりモルツでしょ、という方は多いと思う。
*私はアルコールは一滴も飲めませんのでわかりませんが…

このビール業界―90年代中頃をピークとし、この頃から始まった、価格の安いビールの出現を境に、一気に本来のビールの出荷は落ち込んでいる。

参考)出荷量の推移
http://www.ilibrary.jp/BB/BB_files_CAGR.html

さらに、ビール系飲料全体の出荷量も近年は減少傾向にあり、かつ価格の安いビールがシェアを高め、二重に売上高を減少させていることがわかる。


いわゆる、「ビールに将来はない」と言われるのはこの為である。


そうした中、近年、キリンは、協和発酵を買収、ナショナルフーズ、ライオンネイサンを傘下に収めるなどM&Aが盛んであり、生き残りを模索している。

で、本日の本題―ここにきてサントリー、キリンの経営統合が現実のものへ、との動きが報道された。

記事によると[1]-[3]:

  • 食品メーカーの売上高ベースで、ネスレ、ユニリーバなどにつづき、キリン+サントリーは第5位
  • 段階的に酒類、清涼飲料などの各事業を一本化
  • 生産設備の面で相互補完
  • ・・・
などが述べられているが、世界5位では影響力はないだろうし、生産設備ってそんな簡単に融通が…(他社の仕様を自社で生産できる?)、事業の一本化は製品を合理化することの困難さよりも、サントリーの:

青いバラの開発
社会貢献活動

に見られるような企業風土と「半世紀に近い歳月をかけてビール事業を黒字する[3]」といった非上場で同族企業の強みなどが、近年、その対極にある欧米型企業へ変貌しつつあるキリンの文化と相容れるのか?

「(サントリーの)美術館やコンサートホールの直接の運営は、株主から批判される(利益にならないから)[4]」だろうし、将来を見据えた「海外でのM&A拡大に向けた収益基盤強化[2]」にしても、シナジーが浮かばない。

と、経営統合の最もらしい理由が見当たらない。

まさか、アサヒ(ニッカ)だとウィスキーで独禁法に抵触するからキリンというわけでもあるまいし・・・。

しかしながら、今後数十年を見据える経営者は、日本の経済が、人口動態的にも、政治的にも、近隣諸国の成長には到底追いつけず、長い間逓減することを熟知している。

本格的に海外へ目を向けると、確かにサントリーは不利なのかもしれないし、今後の日本の状況を考えると、超長期スパンでは、(海外投資に関して円高の観点から)最後の機会を向かえている。


・・・いずれにせよ、サントリーは、非上場の同族経営のメリットを捨てるほどのことなのでしょう。


<関連記事>
パナソニック、三洋電機・・・いよいよ始まる大買収


<参考>
[1]「キリン、サントリー経営統合へ」日本経済新聞1面, 2009.7.13
[2]「世界で勝ち残りへ先手、キリン、サントリー統合交渉」日本経済新聞3面, 2009.7.13
[3]「キリンと経営統合、サントリー、脱・同族辞さず」日本産業新聞20面, 2009.7.14
[4] 大前研一ライブ#502


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July 15, 2009

金融界のイノベーター―野村徳七(二代目)

私が接してきた多くの専門家やプロフェッショナルの方々から感じることは、彼らの腕は「向上する」と「落ちる」しかなく「維持」はないようである。向上していなければ、落ちているのだそうだ

さて、今日の記事は、二代目野村徳七(=信之助)である。

彼は、初代徳七の長男(信之助)として、明治11年に大阪に生まれる。成長し、父の両替業を手伝うも、日清戦争後の不況でその両替業務は不振をかこっていた。信之助(後の二代目徳七)は株式業務の充実を父に説き、父はしぶしぶ認める形となったが、そこから信之助のビジネスが始まるのである(それまでに一度株式売買では痛い目にはあっているのだが・・・)。

当時の証券業務とは言っても、証券業者の多くが、勘や目先の相場の動きによって売買をしているため、株屋、相場師、虚業家などと世間から言われているような状態であった。

彼の株の考えは「株屋といふものは大体十回売って一回買えば宜し、唯その一回の買いを何時どこで敢行するかが、難しい点である」と、まさに相場師であり、実際にも幾度かの大利得を得ている(日露戦争時、第一次戦争時、昭和恐慌時など)。

大抵の場合、大勝負をする相場師に成功例はないのだが、野村證券が現存する今、彼のビジネスの生存確率を高めたのは、「調査の野村」という伝統が生まれたことに由来する

当時の売買は上記のように投機的であり、”調査”という言葉自体が親和性が低い。が、彼は、諸企業の経営内容と株価の変動に関する情報を顧客に提供し、それにより顧客を野村商店に引きつけていた(『大阪野村商報』)。後に証券会社へと脱皮していくさいも、調査部を充実させている。

まさに、彼の革新は、”調査”を行なうことと、それを実行できる人事を構築したことである。

そして、多角化を経て、財閥を形成していく…とどまるところを知らないように。。。


・・・「常に一歩前進することを心がけよ。停止は退歩を意味する」(野村徳七)***



***最後の言葉は下の参考資料『心に響く 名経営者の言葉』より。




<関連記事>
『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助
商人は賢才でなければならぬ―渋沢栄一
「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」―五代友厚
腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三


<参考資料>
*野村徳七に関するグループのHP
http://www.nomuraholdings.com/jp/company/basic/founder/
*私の好きな書籍の一冊である『日本の近代 11 企業家たちの挑戦』の著者、宮本先生の講義ノートも参考に記載しています。


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July 13, 2009

メーカーのメンタリティ

先日、フィギュアスケートでのオリンピックの話にちなんで、モノづくりでの“レベル4の集団”の話を掲載した(記事はこちら)。

その中で、設計部*に着目したのだが、本日の話は、もう少し具体的なもので、当該部門の“レベル4”とはどういうものか?である。

結論的には、「外に通用する」ことである。

具体的には…:

    設計部であれば、いざ、工場へ導入といった際、その工場が競合の工場であっても、問題なく仕様化、商品化できる(特許の問題や実際の技術交流、指導など…これは、技術屋で業界全体の視点を持つ人、集団が必要)。

    製造部門であれば、上の例とは逆に、競合の仕様を受け取っても、見事に製品を完成させることである(実際、生産のみに特化した企業ってありますよね)。また、自社の方式がトヨタの生産方式(関連記事は下)などであれば、他社を指導するなど(指導できるほどの従業員がいる!)。

    販売部門であれば、自社の商品は選択肢の一つであり、あらゆる企業発の商品を顧客の要望に従って、販売することが出来ることである。

    コンサルタント的な部署(QC推進室など)は、他社を指導してコンサルト料をいただく事である。

    何より、経営陣は、他社をも経営できるレベルでなければならない。

結局は、各部門が独立採算でも飯を食って行けるレベルである。

とは言っても、目指さなければならない、ということでもない。安く作るのであれば、自社の製造部門を利用しなくてもいいし、製造部門は自社の開発陣のわがままに振り回されることはない。

ただ、大きな視点では、日本の労働人口は逓減し、安価な費用の為に、モノづくりが空洞化していくことは、現在の米国の製造業の状況に向っており、国を支える次の産業が育っていない間は、望ましくはない。
*とは言っても経団連会長の企業がどんどん海外展開しているので何とも言えませんが…。


・・製品やプロセスのカイゼンにはその余地が少なくなりつつあります。次なる変化はビジネスモデルそのものです。


<関連記事>
レベル4の集団
結局、トヨタの評価ってどうなのよ!?
標準化の弊害
標準化の功罪
標準化とマニュアル化

*「設計」とは…抽象的な概念のように思われますが、その基本概念を示すひとつに『公理的設計―複雑なシステムの単純化設計』などがあり、これは、設計技術者は必読の書です。“設計学”の一部と言えます。内容は、機械工学的な記載が主ですが、概念を学ぶには1章で十分です。

<参考書籍>



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July 9, 2009

レベル4の集団

トリノオリンピックにて――競技が終わった後、観客はその選手をスタンディングオベーションで向かえた。
フィギュアの荒川選手(当時)である。

得点を競う競技で、ルールが変わり、ジャンプ、スピン、スパイラル、ステップ、それぞれにレベルが設けられ、最高レベルのレベル4を如何に取り入れ、プログラムを構成するか…。

特に、ジャンプでのトリプルアクセルは、同じレベル4でも他と比べ、別格に得点が高いのだが、彼女は特にこれが売りではない。代名詞のイナバウアーも得点にはならない。

が、静かにそれぞれのレベルを高め、ジャンプも後半のコンビネーションを設計し、出来うる限りに得点を取りにいった。

結果はご存知のとおりである。2004年の旧採点ルールと2006年の新ルール、トゥーランドット*は2度金メダルをもたらした。
*ネッスンドルマ/誰も寝てはならぬ



さて、モノづくりにおいて、日本の競争力を維持するには、研究開発や生産技術など、多くの部門がレベル4であることが望まれる(強引なもっていき方だなぁ…)。

優秀な研究開発品も、レベルの低い生産工場では駄作であり、逆に、名工が作る製品が誰でも生産できる凡庸な設計では、名工の意味がない。

スマイルカーブから生産行為において利益を抽出しにくくなっている日本では、それほどの高い品質(や独特の品質)でなければ工場は立ち行かないだろう。

そういった意味で、日本独特の姿勢を残すとすれば、キーセクションは、設計部である。

販売部門やマーケティング部門との連携、製品の開発、設計、デザイン、部品、部材の選定から工場導入、原価管理まで、様々な部門と折衝のあるこの部門は、昔は電機メーカーでは花形部署と呼ばれていた。

人材育成には10年かかると言われるほど、業務が広範囲に及んでいる。

ここがレベル4でなければ、本日の話のすべてははじまらず、単なる”なんでも屋”に成り下がる。ここのレベル4は他と比べて別格に得点が高いのである。

それは、売上を高める行為とコストを低減する行為の両方を、経営行為においてかなりの割合を担うからである。

利益の多くを左右すると言っても過言ではないのである。

こうしたキーとなるセクションの教育は、ビジネスのルールの変更に対しても、それに対応できる集団としての期待値が高い。


・・・コンカレントエンジニアリング**の実際として、旗振り役は設計部が多いものです。


**コンカレントエンジニアリング:日経ものづくりの用語集はこちらを参照

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July 6, 2009

「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」――五代友厚

明治日本の革新的企業者といえば、西の五代友厚、東の渋沢栄一である(渋沢については関連記事を参照ください)。
*タイトルの言は作家の織田作之助による。

大阪証券取引所に行かれた方は…そうである、あの銅像は、五代友厚である。

五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である
大阪商工会議所HPより)。


五代は1835年12月、薩摩に上級武士の次男として生まれ、青年時代の多くを長崎で過ごした。海外への渡航経験もあり、ヨーロッパでは約11ヶ月もの滞在経験を持つ。

維新後は新政府に採用され、政府役人となる。その際、大阪府判事へ任命され、大阪在勤となる。

大阪では、旧来の商人層を新たなビジネスへの参加を促したり、財界の指導者として新しい経済制度・機関、財界団体をつくり上げた。

例えば、堂島米会所の再興、大阪株式取引所、大阪商法会議所の設立、両替商手形の流通促進、地租米納論などで、大阪の旧経済秩序の上に経済の近代化を考え、実行していった。

これらのことは、当時の大阪の事情を鑑みた背景がある。幕末・維新期では、大阪は衰退しており、基本はイエ・ビジネスであった。こうした状況から五代は、大阪の地での重要なことは、大阪商人の企業家精神を喚起し、彼らの利益をくみあげることであると感じていたのである。

*上の例で言えば、例えば渋沢は、西洋流の銀行制度に基づく手形制度の導入を図るべしと考えていた。

結論から言えば、五代がいなければ、近代の大阪は始まっていなかったのである。

というのも、渋沢や彼のような企業者職能を資する人物は本当に限られており、希少だったからである。


・・・「五代はんは大阪の恩人や」(その死を悼んで)



*本日の記事は宮本又朗, 『日本の近代 11 企業家たちの挑戦』中央公論新社, 1999, pp295-317を参考に記載しています。


<企業家に関する本ブログの関連記事>
渋沢栄一(1840-1931)
商人は賢才でなければならぬ――渋沢栄一
腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助


<五代に関する関連サイト>
五代友厚(Wikipedia)
五代友厚公(1835-1885)について(大阪証券取引所)
五代友厚(初代会頭)について(大阪商工会議所)


<参考書籍>


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