私が接してきた多くの専門家やプロフェッショナルの方々から感じることは、彼らの腕は「向上する」と「落ちる」しかなく「維持」はないようである。向上していなければ、落ちているのだそうだ。
さて、今日の記事は、二代目野村徳七(=信之助)である。
彼は、初代徳七の長男(信之助)として、明治11年に大阪に生まれる。成長し、父の両替業を手伝うも、日清戦争後の不況でその両替業務は不振をかこっていた。信之助(後の二代目徳七)は株式業務の充実を父に説き、父はしぶしぶ認める形となったが、そこから信之助のビジネスが始まるのである(それまでに一度株式売買では痛い目にはあっているのだが・・・)。
当時の証券業務とは言っても、証券業者の多くが、勘や目先の相場の動きによって売買をしているため、株屋、相場師、虚業家などと世間から言われているような状態であった。
彼の株の考えは「株屋といふものは大体十回売って一回買えば宜し、唯その一回の買いを何時どこで敢行するかが、難しい点である」と、まさに相場師であり、実際にも幾度かの大利得を得ている(日露戦争時、第一次戦争時、昭和恐慌時など)。
大抵の場合、大勝負をする相場師に成功例はないのだが、野村證券が現存する今、彼のビジネスの生存確率を高めたのは、「調査の野村」という伝統が生まれたことに由来する。
当時の売買は上記のように投機的であり、”調査”という言葉自体が親和性が低い。が、彼は、諸企業の経営内容と株価の変動に関する情報を顧客に提供し、それにより顧客を野村商店に引きつけていた(『大阪野村商報』)。後に証券会社へと脱皮していくさいも、調査部を充実させている。
まさに、彼の革新は、”調査”を行なうことと、それを実行できる人事を構築したことである。
そして、多角化を経て、財閥を形成していく…とどまるところを知らないように。。。
・・・「常に一歩前進することを心がけよ。停止は退歩を意味する」(野村徳七)***
***最後の言葉は下の参考資料『心に響く 名経営者の言葉』より。
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○商人は賢才でなければならぬ―渋沢栄一
○「明治の大阪の指導者として、開発者として友厚の右に出る人は一人もいない」―五代友厚
○腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
<参考資料>
*野村徳七に関するグループのHP
http://www.nomuraholdings.com/jp/company/basic/founder/
*私の好きな書籍の一冊である『日本の近代 11 企業家たちの挑戦』の著者、宮本先生の講義ノートも参考に記載しています。
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