明治日本の革新的企業者といえば、西の五代友厚、東の渋沢栄一である(渋沢については関連記事を参照ください)。
*タイトルの言は作家の織田作之助による。
大阪証券取引所に行かれた方は…そうである、あの銅像は、五代友厚である。
「五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である」
(大阪商工会議所HPより)。
五代は1835年12月、薩摩に上級武士の次男として生まれ、青年時代の多くを長崎で過ごした。海外への渡航経験もあり、ヨーロッパでは約11ヶ月もの滞在経験を持つ。
維新後は新政府に採用され、政府役人となる。その際、大阪府判事へ任命され、大阪在勤となる。
大阪では、旧来の商人層を新たなビジネスへの参加を促したり、財界の指導者として新しい経済制度・機関、財界団体をつくり上げた。
例えば、堂島米会所の再興、大阪株式取引所、大阪商法会議所の設立、両替商手形の流通促進、地租米納論などで、大阪の旧経済秩序の上に経済の近代化を考え、実行していった。
これらのことは、当時の大阪の事情を鑑みた背景がある。幕末・維新期では、大阪は衰退しており、基本はイエ・ビジネスであった。こうした状況から五代は、大阪の地での重要なことは、大阪商人の企業家精神を喚起し、彼らの利益をくみあげることであると感じていたのである。
*上の例で言えば、例えば渋沢は、西洋流の銀行制度に基づく手形制度の導入を図るべしと考えていた。
結論から言えば、五代がいなければ、近代の大阪は始まっていなかったのである。
というのも、渋沢や彼のような企業者職能を資する人物は本当に限られており、希少だったからである。
・・・「五代はんは大阪の恩人や」(その死を悼んで)
*本日の記事は宮本又朗, 『日本の近代 11 企業家たちの挑戦』中央公論新社, 1999, pp295-317を参考に記載しています。
<企業家に関する本ブログの関連記事>
○渋沢栄一(1840-1931)
○商人は賢才でなければならぬ――渋沢栄一
○腐ってはいけない、どんな道でも達人に―小林一三
○『幸之助論』に学ぶ―松下幸之助
<五代に関する関連サイト>
○五代友厚(Wikipedia)
○五代友厚公(1835-1885)について(大阪証券取引所)
○五代友厚(初代会頭)について(大阪商工会議所)
<参考書籍>
photo by Maco