「安全」について

2006年11月8日

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設計といっても基本的には工場勤務であるが、長くいるとそのルールの多さに驚かされる。その際たるものが「安全」に関するものである。少しの怪我でも家に帰り病院へ行くと労働災害の「隠蔽」になるため、必ず会社経由で行くか、産業医に診てもらうかしなくてはならない、などは基本であるが、最近ではリスクアセスメントにより危険なポテンシャルの洗い出し、対策、教育が取り組まれている。

さて、「マニュアルをつくった人は危険のありかを知っているが、あらかじめ決まった『安全なやり方』だけしか知らない人たちはそうはいかない。不測の事態が起こればそれに対応できずに必ずトラブルになる」(危険学のすすめ)とは畑村の見解であるが、そのとおりだと思う。よく言われる喧嘩の仕方と同じである。危険を体験せよ、とまでは言わないが、ヒアリハットなどを集積することで危険とうまく付き合えていけるものだと考える。

工場での事故は本人にとってもそのご家族にとっても苦痛である。後遺症が残るケースはさらに苦痛を伴う。
しかし、事故を起こしてしまった人を攻めるのは簡単であるが、どう事故に至ったかのプロセスを学習することのほうが優先事項である。残業が多かった、生産数がタイトであった、クレームの対応であった、など、様々な要因の交互作用である。

従業員の安全すら守れない企業が顧客の安全を守れるとは思えないし、そうであってほしい。

巨額の利益を従業員の犠牲の上に成り立たせる経営者は無能である。
従業員の犠牲をもってしても利益を伸ばせない経営者は危険である。
それらを把握すらしていない経営者は事故である。

photo (c) Mori

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エンジニアの視点から、品質技法、解析技術、生成AIについて発信しています。 (シックスシグマ・ブラックベルト、MBA)

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